吉久関連年表(高岡市吉久)

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吉久関連年表

以下は、個人的目的のために作成してきた年表です。引用も100%出典通りとは限りません。あくまで参考にとどめ必要に応じて原典にあたっていただきたいと思います。もし誤り等気づかれましたらぜひご指摘のほどお願いいたします。
※ 内容を確認のうえ少しずつアップしていきたいと思います。

末尾の[ ]は出典先を示します。例えば[0515-120.87]は、文献「奈良の大仏 世界最大の鋳造仏」([0515-120])のp87に記述の文章等を根拠(典拠)にし、あるいはその文章からの引用であることを示します。

LinkIcon参考資料一覧を参照下さい。


○ 奈良・平安
・修法(?)に、吉久の地名の由来があるといわれ、あんころ(日の出町)に江戸時代の中頃、諏訪社という古い古い神が祀られていたことからして、あんころは奈良・平安からの遠い昔からの部落であろう。[0808-03.30]

○ 天文24年(1555)
・元地蔵宮にあったといわれる古式の狛犬が一対大宮の拝殿にある。これには天文24年と刻まれている。[0808-03.20]

○ 初期
・加賀藩の年貢収納の御蔵は、初期においては十村肝煎などの在村有力農民の蔵を利用することが多かった。[0808-02.6]

○ 天正17年(1589)
・加賀藩米と上方市場の接触……まず敦賀の高島屋伝右衛門を通じて始まった[0808-02.3]

○ 寛永・正保期
・大津の菱屋・小浜の組屋と結ぶ大津登米に力を入れた[0808-02.3]

○ 寛永14年(1637)
・全国的には島原の乱が契機となり西国海運への認識が高まった。
 経済性の低い大津経由に対して、危険性は大きいが経済性が高い西廻り航路が注目された[0808-02.3]

○ 寛永15年(1638)
・加賀藩では、藩の船一艘が初めて「為御試米百石」を直接に大坂に運んだ。[0808-02.3]

○ 寛永19年(1642)
・加賀藩は砺波郡小矢部に御蔵を設置。
 ……これは例外的な早さ、領内に広く御蔵を建てたのは、慶安以降。
例:慶安元年(1648)に石川郡本吉、承応元年(1652)に石川郡松任、明暦2年(1656)に砺波郡津沢、同3年石川郡鶴来、寛文3年(1663)砺波郡鴨嶋、寛文10年新川郡滑川に各御蔵を建てた。[0808-02.6]

○ 正保3年(1646)
・六渡寺新(六渡寺の出村)、射水郡全部の町村名が一覧できる最古の正保3年越中四郡高付帳に記載あり。
 六渡寺神明社(通称:あさのの宮、旧六渡寺新村神明社。)所在地:吉久3-5-1(旧六渡寺新139)。祭日:4/1.10/26。浅の宮が最も早く拓け、次いで、あんころの宮を祀る一帯が古いといわれている。「吉久の微高地に諏訪社を祀る古くからの部落があり、この北側に牧野に続く一帯を開いた六渡寺の出村があとでできたと推察すれば、地理学的に見れば妥当」(?)[0808-03.12]

○ 正保4年(1647)
・この年以来、上方船が大坂廻米に雇われた。
 こうして、西廻り航路が次第に確立→全国市場が成立していった。
 伴って、敦賀・大津廻米は大坂廻米に変わっていく。
・この変化に対応→加賀藩では、御蔵の整備、年貢米販売市場の整備として在郷町の設置による地元市場の整備、塩の生産に対して払われる塩手米、鉱山町における米消費市場の整備等改作法を施行。[0808-02.3]

○ 慶安元年(1648)
・石川郡本吉に御蔵を建てた[0808-02.6]

○ 承応元年(1652)
・石川郡松任に御蔵を建てた[0808-02.6]

○ 承応期(1652〜1654)
・承応期から津留制度を強化し、領内市場の掌握と独自の価格体系維持に当たった。[0808-02.3]

○ 承応〜明暦(1652〜1657)
「また(?)■役・械役などの課税基準を示し」その取り立てを強化。[0808-02.3]

○ 承応4年(1655)
・同年、加賀藩は吉久の西につながる微高地に藩直営の御蔵を建て、藩命により近村から蔵稼の頭振り(ずぶり)を集め、吉久新村(しんむら)を建てた。[0808-01.76]
・吉久村に続く、西側の微高地に加賀藩の御蔵が建てられ、藩命により近吉久村新が開かれ、詰米奉行も赴任して来て、高岡とともに加賀藩の重要な米の集散地として栄えてきた。[0808-03.30]
・加賀藩の御蔵が吉久村の西側の微高地に建てられ、藩命により近村から人々が集まり吉久村新ができた。[0808-03.18]
・御蔵町にある通称三角広場は、古くは加賀藩の御収納御蔵の敷地の一部であった。[0808-03.20]
・吉久新村は御蔵の建築とともに村立した無高所(農業生産のない所)で、後に町立となった。[0808-03.31]

○ 明暦2年(1656)
・明暦2年から寛文9年にかけて、五十嵐庄右衛門屋敷引高とあるから、
 御蔵の設置とともに詰米才許や足軽が居住していたのだろう。
 加賀藩の御蔵番は百姓番であったが、吉久と宮腰のみ侍代官であった。[0808-01.76]
・寛永15年(1638)に初めて大坂に100石の廻米が行われて以降、この頃から大坂廻米が年々行われるようになった。[0808-02.3]
・越中国可西三郡及び加賀国河北郡の代官であった篠島豊前宛ての明暦2年蔵前算用状によると、収納高3万1055石余り、その49%が大坂廻米となっていた。[0808-02.4]
・砺波郡津沢に御蔵を建てた[0808-02.6]
・「明暦2年分利波郡及氷見庄御年貢米之事」(万治3年)に、
 「三千弐百三拾六石壱升八合 今石動・城端・高岡・吉久詰米ニ渡ル」とあり
 早ければ、同年には吉久に御蔵があった。[0808-02.6]

○ 明暦3年(1657)
・同年、収穫高は4万7247石余りで、その78%が大坂廻米となっている。[0808-02.4]
・石川郡鶴来に御蔵を建てた[0808-02.6]

○ 万治元年(1658)
・この年以来、年貢米とともに、計画的に給人知行を御召米として買い上げて大坂廻米に充てた。
御召米……給人が農民から収納した米を藩が買い上げたもの
(寛文3年=1663、御召米の規定が設けられた)[0808-02.3]

○ 承応〜寛文期(1661〜1673)
・年貢収納蔵も、承応〜寛文期にかけて整備[0808-02.3]

○ 寛文期
・年貢収納蔵が整備途上の寛文期においては、年貢米の大半が廻米にあてられた。廻米律の表あり[0808-02.3]

○ 寛文・延宝期(1661〜1680)
・寛文・延宝期の廻米分や吉久詰米分を一覧(票8)
・年貢米は、小矢部川や庄川の上流にあたる御蔵所から、川下げや馬下げによって吉久御蔵に集積され大坂や江戸に廻米されたが、必ずしも毎年、かつ年貢米の全てというわけではなかた。廻米されないときは、吉久御蔵をはじめ高岡・今石動・中田・津沢・鴨嶋・小矢部・戸出等の御蔵に詰米された。
・川下げや馬下げによって吉久御蔵に集積され伏木から廻米された(享保12年〜嘉永4年の)年貢米……(表9) それを平均すると、23238石。
 吉久御蔵の最大詰蔵米の量は、33544石(寛保4年)。[0808-02.7]

○ 寛文元年(1661)
・この年には、吉久・伏木詰米奉行 松江次郎兵衛、杉岡伊兵衛、北野半右衛門、斎藤伊左衛門の4人が任ぜられ、砺波・射水両郡最大の御蔵所の取締りにあたった。
大坂、江戸への廻米は、ここで俵改め、升改めをして外海船に積み込み出船した。(外海船?)[0808-01.76]
・吉久詰米奉行が就任してきて、ますます人が集まり村(吉久村新)が大きくなったが、寺がないので大田村の西田(さいだ?)から西照寺をまねくことになり、中塚が使者になったという口伝がある。[0808-03.18]

○ 寛文2年(1662)
・加賀藩領内には、収納本蔵28か所、
 他に中出蔵・作食蔵があり、
 番人の給料は藩から与えられ、
 寛文2年には18か所あったが、その後整理され
 延宝8年(1680)の領内の収納本蔵は、
 砺波・射水郡では、小矢部・高岡・吉久・城端・氷見・伏木・能町の7か所となった。
[0808-02.6]
・寛文2年6月8日付けの資料に、
 「一、吉久・三日市御蔵米ハ大野馬左衞門并開発村源内・下条村瀬兵衛升廻シ才許人」と記され、
 遅くとも、同年には吉久に御蔵があった。[0808-02.6]

○ 寛文3年(1663)
・御召米の規定が設けられた(万治元年を参照)[0808-02.3]
・砺波郡鴨嶋に御蔵を建てた[0808-02.6]

○ 寛文5年(1665)
・廻米……寛文5年(1665)までは大坂廻米が多いが、以後は江戸廻米に切り替わる。[0808-02.7]

○ 寛文6年(1666)
・全国市場の成立→海運の活発化に対処、加賀藩は同年、同7年、同10年と難船救助・破船荷物取揚・浦手形発行などの「定め」を触出した。[0808-02.3]
・射水郡の御蔵は寛文6年の書き上げによれば、吉久・氷見・伏木・高岡の4か所[0808-02.6]
・利波・氷見・射水御収納御蔵
 小矢部・高岡・吉久・城ヶ端・氷見・伏木、
 外弐拾弐ヶ所、能州新川御蔵所蔵算用場御紙面ニ有之候、右弐拾八ヶ所御収納御蔵所ニ付、
 番人給銀、給米従公儀相渡候、各才許所其御心得可有候[0808-02.6]

○ 寛文10年(1670)
・新川郡滑川に御蔵を建てた[0808-02.6]

○ 延宝8年(1680)
・この年以降、普通8万石を大坂へ、3万石を江戸に廻米することが通例となった。[0808-02.4]
・同年の領内の収納本蔵は、
 砺波・射水郡では、小矢部・高岡・吉久・城端・氷見・伏木・能町の7か所となった。
[0808-02.6](寛文2年…参照)

○ 貞享元年(1684)
・加賀藩の石高は126万7405石。越中領は62万7872石。そのうち河西地方が40万9218石、河東地方が21万8654石。
(加賀藩領越中……神通川を境に、西=河西地方(河西三郡……砺波郡・射水郡・氷見ともいう)、東=河東地方=新川郡と一致。)
・河西地方を縦断して流れる小矢部川・庄川により砺波・射水両郡は一地域としての広域性が与えられ、また両川に舟運の便があり、その流域にほぼ2里等間隔で、井波・福光・福野・杉木新・戸出・津沢・中田・福岡・福町・埴生・立野・佐賀野・大門・小杉・放生津・伏木などの在町が展開し、町奉行支配の高岡・今石動・城端・氷見の各町に結びついていた。[0808-02.5]
・河西地方の御蔵のうち、小矢部御蔵より南方の城端・井波・福光・福野・津沢・鴨嶋御蔵は川上御蔵と呼ばれ、
・戸出・中田・小矢部・立野御蔵は川下御蔵と呼ばれた。
・射水郡の御蔵は寛文6年の書き上げによれば、吉久・氷見・伏木・高岡の4か所、
 享和3年(1803)に水運の便のある放生津潟に面した放生津にできたものを加えて5か所。
[0808-02.6]

○ 貞享から元禄(貞享元年1684-元禄元年1688〜元禄16年=1703)
・砺波郡の干鰯の使用は貞享から元禄(1688-1703)の頃から始まった[0808-02.4]

○ ?
・出船所(越中では伏木・放生津・氷見の3か所)から積み出される加賀藩の年貢米の積み出し総量は、毎年大坂廻米が10万石余り、江戸廻米が3万石前後あり、
 砺波・射水両郡の年貢米は、各地の御蔵や中出蔵から吉久・伏木に集められ、伏木港から大坂・江戸廻米として積み出された[0808-02.4]

○ 正徳2年(1712)
・同年9月調、射水郡堂宮社人、山伏持分并百姓持分相守り申品書上帳[0808-03.10]

○ 享保期(1716-1736)
・享保期以降、伏木港から積み出された砺波群・射水郡からの大坂廻米は、年間3万石から4万石あった。→全国市場の成立、改作法の実施に伴う近世的支配の確立により作られた百姓
→年貢収納蔵→吉久・伏木への年貢米の移動ルートが確立。この地方の諸物資の流通ルートの基本型が設定。
・こうした流通ルートは在町に活力を与え、このルートに乗って蔵米を移動させたのが、高岡木町の長船である。そして、吉久御蔵は、出船所である伏木に送る最後の御蔵として詰米の他に各御蔵からの川下げ米の一時集散地として重要な役割を果たした。
・こうした流通ルートを利用して伏木港が川下げの逆、則ち川上せした物資に鯡(にしん)や
干鰯(ほしか/いわし)等の魚肥がある。(砺波郡の干鰯の使用は貞享から元禄(1688-1703)の頃から始まった)[0808-02.4]
[0808-02.4]

○ 享保13年(1728)
・8/23、西照寺五世浄信の時、吉久へ移転してきて今の宮中新公園の北側あたり(吉久村783番地)にあった。→M29[0808-03.18](宮中新公園は、吉久公民館の東側)

○ 寛保2年(1742)
・射水郡高免寺庵、宮等書申帳によれば、
 吉久村神明、諏訪、社人尾崎筑後 (伊藤……あんころ)
 吉久新村神明尾崎筑後、 (伊藤……大宮)
 浄土真宗西照寺、
 六渡寺新村神明社人尾崎図書とある。 (伊藤……あさの)
[0808-03.10]

○ 明和8年(1771)
・同年分の砺波郡収納米を吉久へ積下した分の御蔵別の一覧表(表7)
(この年、2万4109石余り積下された)[0808-02.7]
・廻米……寛文5年(1665)までは大坂廻米が多いが、以後は江戸廻米に切り替わる。[0808-02.7]

○ 享和3年(1803)
・同年、射水郡の御蔵は水運の便のある放生津潟に面した放生津にできたものを加えて5か所。(他の4か所……吉久・氷見・伏木・高岡)[0808-02.6]
・これらの各蔵に積まれた年貢米の多くは算用場の指図により、
 氷見蔵米は氷見浦、
 放生津蔵米は放生津浦から積み出されたが、
 他は、小矢部・庄川の水運を利用して吉久・伏木に集められ、伏木から積み出され、大坂・江戸に廻送された。
・年間3万石から4万石の廻米があった。
 積み出しには、出舟船奉行・同横目を派遣し指揮と監督に当たらせ、
 氷見・放生津浦からの出船も伏木出船米のうちとされた。[0808-02.6]

○ 文化・文政
・百足(むかで)獅子はすでに文化文政(1804-1830)の頃にみえ、二上の里神楽に因縁をもつ六渡寺の獅子舞は、この頃にできたと思われている。(新湊市史p851)[0808-03.31]

○ 文化元年(1804)
・吉久新村の北側の荒れ地が文化元年から文化3年にかけて開拓され、吉久新開として草高98石が吉久新村の一部となった。文政7年(1824)吉久新村中伏木村領絵図にこの位置にあたると思われる所に宮の記入があり、この地を開拓して御宮(天満宮、通称:新開の宮。旧吉久新村新開の宮。旧所在地:吉久1丁目、旧大字吉久新開字六渡。祭神:菅原道真、祭日:6/25。昔の吉久駅(現・第一自治会児童公園の北側にあった)の東北あたりにあったが、戦前、練炭会社に敷地を買収され、大宮に合祀されたという。)を祀ったものと思われる。[0808-03.14]cf:「第一自治会児童公園」というのは、「吉久第一児童遊園」(吉久1-3)のことか?

○ 文化2年(1803)
・同年の石黒信由の手による吉久御蔵堀川絵図面によれば、小矢部川から中伏木領の東縁沿いに南北に380m、幅15m〜20mの堀川(御米通路川)がつくられ、突き当たりの御蔵所のすぐ前に、270坪(891.6平方メートル)の船溜まりがあって、川下げしてくる長舟や本船に積み込む船が出入りした。この堀川は、明治8年に用水を残して埋め立てられ、田と道路になった。又、御蔵の雪下ろし人足の各村への割当や、出火の際の人足出し方まで定められていた。[0808-01.77] >明治7年

○ 文政5年(1822)
・吉久御蔵の規模……伏木浦出船米の蔵別石高からみてもその大きさが知れる。
 幅4間、長さ30間、6戸前、6棟という大きなものであった。[0808-01.76]
・吉久御蔵の規模……同年の「射水郡所々御蔵間数等書上申帳」によれば
 間口30間、奥行4間の建物が6棟
 そのうち、屋根がこけら葺き=5棟、板葺き=1棟。
 御蔵には、給米20俵の足軽が2人常置された。
 名前……長谷川源左衛門・斎藤勇助
・このように、吉久御蔵は砺波・射水両郡の御蔵の中では飛び抜けて大きかった。
 それは、出船所である伏木の御蔵がわずか1棟であったことからもうかがえる。
・また、吉久御蔵は単に年貢収納蔵としての機能ばかりでなく、砺波・射水郡の御蔵の中で唯一、砺波・射水両郡の収納米の詰米所でもあった。そのため、御蔵の升廻し相見人を任命し、川下げによる詰米の際に2日間にわたって吉久に詰めさせたのである。かくて吉久御蔵は、小矢部川や庄川の上流にあたる御蔵所から、川下げや馬下げによって年貢米を集約する年貢米集散地として、また御蔵として重要な役割を果たした。小矢部川や庄川の上流にあたる御蔵から集められた年貢米は、吉久蔵で御蔵詰米とされ、あるいは伏木港から積み出され大坂廻米や江戸廻米となった。
[0808-02.6]

○ 文政8年(1825)
・宮中新神明社(通称:小宮。旧宮中新村神明社)旧所在地:吉久2-5-0(?)(旧宮中新屋敷350)祭日:4/1、10/26。由緒:文政9年(1826)宮中新神明社と命名とある。
 宮中新村は、下牧野村領付宮中開、下牧野領畑直高等での吉久付近の領地に吉久、能町、川口等の宮重開等の土地をまとめて、文政8年〜天保9年(1838)の間に一村立したらしく、新村成立にともない、神明社を鎮座したと思われる。[0808-03.14]

○ 文政9年(1826)
・この年以後と思われる、斉藤家文書の吉久御蔵所見取絵図は、
 文政5年の「射水郡所々御蔵間数等書上申帳」(?)の内容
 (幅4間、長さ30間、6戸前、6棟)と合致する[0808-01.76]
(cf:明治2年には1戸前増)

○ 文政11年(1828)
・日の出町神明宮(通称:あんころの宮)……文政11年(1828)加賀藩書上帳によると、草高500石16戸の氏子で祭礼と。(出典は、「吉久日の出町鎮座神明社再建史」(S26))[0808-03.10]

○ 天保4年(1833)
・吉久神明社(通称:大宮。旧吉久新村神明社/所在地:吉久2-5-17、旧吉久780)。祭神:天照皇大神豊受大神(祭日:4/1.10/26)、合祀菅原大神(祭日:10/25)。鎮座の年代不詳。拝殿破風に天保4年8月の墨痕あり。[0808-03.13]

○ 弘化3年(1846)
・砺波、射水両郡の鯡の輸入地は、伏木と放生津だった。そのほとんどが伏木から入荷。
 能登・越後からの輸入胴鯡量が46万貫のうち42万貫、干鰯6.7万俵のうち6.1万俵が伏木に入った。
・鯡の輸入量に対して、干鰯の入荷は、同年以後は、減少の一途。
[0808-02.5]

○ 嘉永5年(1852)
・鯡粕、干鰯ともに全輸入量が伏木から入荷。その後の入荷量は横配[0808-02.5]

○ 安政4年(1857)
・六渡寺神明社……「「安政4年氷見庄」の木札を蔵する明治34年改築当時氏子10戸との記録があり」(?)[0808-03.12]

○ 文久2年(1862)
・鯡の輸入量に対して、干鰯の入荷量は、2000俵余りに激減。
 かくて、米作は鯡を度外視しては考えられず、鯡の輸入港としての伏木の位置は明治初期まで続いた。こうして、砺波への魚肥は、高岡木町の肥料問屋・砺波地方の肥料商を通じて売られた。
・「砺波郡於村々鯡・干鰯等都而屎物商人及び承り候分書上申帳」によると、砺波郡の肥料商人は59ケ村に143人いたという。干鰯・鯡肥等の金肥の砺波郡への輸送は木町の長船が当たった。[0808-02.5]

○ 文久3年(1863)
・伏木への魚肥の入荷量が飛躍的に増大。およそ130万貫。[0808-02.5]

○ 慶応2年(1866)
・伏木への魚肥の入荷量がおよそ140万貫。[0808-02.5]

○ 江戸時代末
・加賀藩最大の米の集散地として栄えた吉久町は、江戸時代末期には曳山があったと伝わるくらい経済力があり、当然古くから獅子舞があったと推察される。[0808-03.31]

○ 藩政時代
・吉久:米蔵が置かれていた。場所は不明。しかし地区内を東西に貫通する旧街道沿いの中程に、本町の北側が旧町名で「御蔵町」と呼ばれ、御蔵跡と見られている
・小矢部川と庄川を舟運びされてきた領内の米は、一旦この御蔵に収められた後、大阪などへ廻米や知行米として運び出された。
・吉久詰米奉行も任命
・地区内に蔵番や御貸屋などと呼ばれる役所も存在した
・現存の家屋はほとんど明治や大正以降に建造
・御蔵廃止後の明治以降により一層発展したようだ
[0808-02.1]

・江戸時代、藩政の領域経済は、大坂の米市場において設定された米価に左右された
・地元米市場の狭隘(きょうあい)さが、年貢米の大坂あるいは江戸廻米となった。
[0808-02.3]
・日の出町神明宮(通称:あんころの宮。旧吉久村神明社)。吉久村には、江戸時代には諏訪神明社及び天満宮があった。天満宮は神明社の境内社で菅原大神を祀りしを、大正13年神明社に合祀と富山県神社庁記録にある。諏訪社も何時のときになくなったのか定かでない。明治40年代政府によって、小社小祠の整理、統合がおしすすめられた時ではなかろうか。[0808-03.10]

○ 藩政時代
・吉久の米商:藩政時代、吉久は高岡とともに重要な米の集散地で、御蔵とともに有力な蔵宿でもあって、新屋(保田)の如きは高岡の5軒の蔵宿にも劣らぬ豪商で、藩の船櫂数理役
として、越中浦方を取締り、時には上役の銭屋五兵衛の代理まで務めていた。[0808-01.78]

・日の出町……藩政時代、加賀藩の御蔵を中心に、中伏木より、御米通路川が入江として入り込み、ここに舟溜まりがあり、地蔵宮があった。[0808-03.112]
(地蔵宮……西照寺境内。俗にションベン宮、米地蔵。地蔵宮時代の祭日は4月1日。今日では米地蔵として8月の地蔵盆に祀っている。[0808-03.17]
・本町……御貸屋敷もあり、また造酒屋二上屋宗助の酒蔵が並んでいた。[0808-03.115]
・寺中町……藩政時代には御蔵があった。また蔵宿の新屋喜六の店があった。[0808-03.116]
・西町……藩政時代より家が建ち並び、ふるくは「おもて」と称した。[0808-03.117]
・第一町……藩政時代は、田畑あるいは荒れ地で、吉久御蔵への米の荷揚げの波止場が置かれた時代があった。
[0808-03.119]
・江戸時代、小矢部川の入江が中伏木から吉久まで入り込んでいた。これを御米通路川と呼んでいた。この船だまりの水門あたり(消防屯所の北側あたりか)は、いつも水が渦巻いていて、誤って水に落ちてもいつも遺体があがらなかったという。あるとき、水に落ちた人を捜しにもぐったところ、地蔵がみつかったのでこれを祀るようになったと伝える。[0808-03.19]

○ 明治
・吉久の米商:蔵宿であったと言われる松田屋(松田)もあり、吉久の住民は米穀の扱い方や、流通に熟知していたから、明治維新後、地租銀となり、米の統制が外されると、有力村民(大地主、商人)等が数名合同して、米穀売買、倉庫業に進出した。これを吉久では米商、倉仲間と称した。
 ヤマノ、マルハチ、ヒシイチ、カネサン、四十七、イゲタジョウ、マルセ、ヒシニ、高岡共立、マルノ……等の蔵仲間があり、これら旦那衆(出資者、出資額により1本持つ、2本もちといった)を吉久二七人衆とか三二人衆と呼んだ。
 米蔵の主力は、対岸串岡、矢田にあって、伏木橋の下流にマルハチ、ヤマノ、カネサン、北海曹達裏門、赤倉、谷内製材と並び、新島に四十七倉庫があった。
 赤倉は元日本郵便の倉庫を払い下げてもらったもので、土蔵の壁に伏木の山土(赤粘土)を塗り込んだもので、外側の道路沿いの腰は赤いレンガを使っていたので、人々は赤倉と呼んでいた。
 赤倉は昭和51年〜56年頃に解体されたが、瓦に日本郵船と入っており、壁の厚さは4寸(12cm)あったという。一般村民は、この荷造りや運搬に携わっていた。
 伏木で石灰工場ができ、製造されだすと、これに進出する米商もあった。
 景気の変動、特に米相場の急落により、没落する蔵仲間もあった。[0808-01.78]


・明治年不詳、西照寺……住職北周、加登左衞門の尽力により再興。[0808-03.18]
・地蔵宮は初め大宮の境内にあったが、吉久に悪いことが続いたので御宮に地蔵様を祀るからだということで、明治の初め頃に今の消防屯所の所へ移されたといわれる。スズメ竹や雑木林に囲まれて西に向いて御宮が建ち、細い石燈籠一対があったという。[0808-03.19]
・(吉久は)明治維新後は、倉仲間によって(御蔵が)受け継がれ、吉久三十二人衆が生まれた。[0808-03.30]cf:数名から十数名のグループ(仲間)をつくり、出資して、米穀・倉庫商を営んだ。倉仲間の旦那(出資者)が吉久に三十二人いたといわれ、主に吉久をはじめ近郷近在に多くの土地を所有する大地主たちであった。[0808-03.31]
・明治の初めから大正を経て戦後しばらくまで、あんころの宮、浅野の宮を中心とした「あんころの獅子」と、通称、大宮と小宮、及び新開の宮を中心とした「おもての獅子」と二舞があった。ともに胴幕に、あんころは7人、おもては12人くらい入る百足獅子である。秋祭りの獅子舞は、その家の魔除け(ヤクバライ)でもある。[0808-03.31]
・維新後、加賀藩最後の吉久伏木詰米奉行桐山章之助は金沢へ帰ったが、野口、長谷川、牧、村中は吉久に残った。今は、野口は高岡、長谷川は東京と聞く。村中は不明。吉久には牧のみ。ここからは、勤王志士野口之布(読みは?)と県下初の私立病院を設立した長谷川徳之が出ている。[0808-01.77]

○ 明治2年(1869)
・同年の「高樹文庫吉久御蔵絵図面」には、8間に10間の4戸前が一棟増えている。
 その敷地は西照寺から、北は消防屯所の向こうまで、
 西の方は末広通りの中ほどまであった。[0808-01.76]

○ 明治4年(1871)
・7/14、廃藩置県により藩蔵(御蔵)を御県蔵(読みは?)と改称した。[0808-01.77]

○ 明治6年(1873)
・御蔵町……藩政時代、旧吉久村、旧六渡寺新村の両方に御蔵番の御貸屋敷があり、明治6年吉久の興仁(こうにん?)小学校は、旧吉久村の御貸屋敷に置かれた。
[0808-03.114]……「旧吉久村の御貸屋敷」は今のどこ?
・年貢米上納が改正され、地租銀となり御県蔵(ごけんぞう?)が廃止、破損し、子供の遊び場となっていた。(大菅より→吉雄の話)[0808-01.77]
・2/16、藤井能三が伏木に県下初の公立伏木小学校を設立した。後に大成校と称す。[0808-01.77]
・6/23、吉久は、同日吉久村の元御貸屋に興仁校(こうにんこう?)を開いた。[0808-01.77]
・8/、六渡寺、三ヶ新、長徳寺、三日曽根の4ヶ村で、三ヶ新に正本校を設置した。[0808-01.77]

○ 明治7年(1874)
・時代は定かでないが、小矢部川から掘割が東に伸び、奥に波止場があった。(第一町の通りに沿って、電車通りの五差路あたり)これを記した絵図は、かつて大門役場にあった。明治7年と推定する(副戸長の名と年代から)法務局高岡支局の地引絵図には、堀川と波止場跡に「波止場」の小字が残されている。[0808-01.76]>文化2年
・7/、新川県は県下14地区へ校舎建築のため無償で官舎管蔵(?)を払い下げ渡した。[0808-01.77]

○ 明治8年(1875)
・御蔵町……元加賀藩の御蔵が取り壊され麻畑となっていた。[0808-03.114]
・寺中町……明治8年御蔵がなくなった。[0808-03.116]
・御米通路川は明治8年頃に道路や農地にされ、後に6尺の用水が戦後まで残されていたが、これも耕地整理されて、その面影もない。[0808-03.20][0808-01.77]
・明治維新後、御県蔵となり明治8年、正本(現中伏木)、大成(現伏木)両小学校新築用材として払い下げられた。大菅より(より……名前?)が生前大菅吉雄に語った所によれば、当時相当建物が荒れていて、子どもたちの遊び場になっていたと。建物が老化していた事は正本校文書からも知ることができる。[0808-03.20]
cf:中伏木小学校……富山県射水市庄西町2丁目12番50号(http://www.nakafushiki-e.imizu.ed.jp/
・宮中新村(宮中新神明社)……明治8年、新川県第十五大区小二区であったのを越中国射水郡宮中新本地割となる。当時、氏子16戸。[0808-03.14]
・吉久御蔵県蔵の用材及び立木をもって大成、正本両校の新築用建材に使用された。伏木へは藤井能三が自船の船頭、四津屋長右衛門はじめ船方一同にて運搬せしめ、洋式二階建て64坪というハイカラな県下初の洋式校舎を建築し、9/1山田権令(県知事)の隣席を仰いで落成式を挙げた。この建物は後に伏木図書館として戦後まで使用された。なお、伏木の塩蔵も使用されたと伝わる。[0808-01.77]
・正本校は、はじめ、御蔵の5番1棟(横4間、長さ30間)の払い下げを受けたが、建物が古く損傷がはげしく使用できる用材が少ないため、6番1棟を追加、2棟を無償で払い下げを受け、5、6番筋前後の杉、松など立木42本を13円50銭で買入した。瓦も払い下げを受けた。正本校建築地、三ヶ新村へは運搬費を安くするためか、石川県富山派出所監獄係宛、懲役人使用願が出され、吉久新村に監獄係出張所が置かれ、建築運搬等に使役された。……吉久から三ヶ新村まで学校建築用の材料運搬について、……村の古老等が承知しないので、堀川(御米通路川)を道路に改修中なので道路完成後、こちらから(正本校係へ)話をして解決するという主旨の文章が、明治8年10月、吉久新村、副戸長牧宗平、戸長大菅仁平、連名にて第15大区、正副区長あてに出されている。[0808-01.77]

○ 明治23年(1890)
・西照寺……門徒総代、大野六右衛門、能松市郎右衛門、西田久右衛門。[0808-03.18]

○ 明治29年(1896)
・8/2、の大洪水で、西照寺の諸堂が破損した。かの地は低地で水がつきやすかったので、御蔵の跡へ移って御堂を再建した。庫裡は元御蔵番御徒(歩?)、野口寛左衛門正之 50石の家を移設したと伝える。[0808-01.78]
・寺中町……明治29年の大洪水の後、西照寺が御蔵の跡地の一角に移転した。[0808-03.116]
・西照寺……享保13年(1728)8/23、西照寺五世浄信の時、吉久へ移転してきて今の宮中新公園の北側あたり(吉久村783番地)にあったが、明治29年8月2日の大洪水で諸堂が破損した。かの地は低地で水がつきやすかったので御蔵の跡地へ移って、再建されたのが今の御寺である。庫裡は野口家(吉久御収納御蔵、藩士・野口寛左衛門正之(まさゆき)50石)を移したものといわれる。西照寺が吉久へ移った後に残された御堂も、そのまま西照寺と称していた。この西田村の西照寺は、後に氷見町へ移り現在も朝日山のふもとにある。
(野口寛左衛門正之……長男は斧吉之布勤王の志士として活躍し後年加賀前田家家職従六位を受く。次男忠五郎、吉久野口家の名跡をつぎ、能町小学校二代校長を務めた。明治中頃、吉久より転出す。前高岡市助役野口清は、この子孫。吉久居住時代の祖父の日記が残されているとか。[0808-03.18]

○ 明治32年(1899)
・8/16、吉久村字蔵下704番地に宅地1反7畝15歩に本堂75坪、客殿9坪、鐘楼2坪を建てた証明願いが、西照寺兼務住職 政近顕應より能町村長 蒲田宇三郎に出されている。[0808-01.78]

○ 明治38年(1905)
・能松キク(キットサの新屋の大叔母)の話(昭和60年頃、当時90歳を超えて)。
 この頃に、一の宮から串岡へ出て、小矢部川を渡船で中伏木へ、ここからあんころの川端(牧野用水)の土手の上を歩いて吉久へ嫁いできた。御蔵も背戸町(末広)もまるで畑で麻が植えてあった。昔の駅付近(第一町)は、低地か荒地で、一軒もなかった。新開(しんびらき?)の宮は建っていなかった。新開の宮の跡と言って、小高い砂地で松林になっていた。[0808-01.78]

○ 明治39年(1906)
・吉久神明社(通称:大宮)……勅命第96号による神饌貨幣■料供進の神社に、能町村で一社指定される。[0808-03.13]
・吉久神明社(通称:大宮)に、日露戦争の凱旋軍人によって建立された忠魂碑がある。[0808-03.13]

○ 明治44(1911)
・第一町……明治44年伏木橋が架設され、石灰工場や人家等が小矢部川沿いに建ち始めた。
[0808-03.119]
・日の出町神明宮(通称:あんころの宮)……明治44年庄川改修時の工夫・人夫等の扁額あり。[0808-03.10]

○ 明治末
・末広町……明治の末には麻畑で、後桑畑になっていたという。
[0808-03.119]
・米地蔵(通称:地蔵宮 西照寺境内)明治の終わり頃から昭和の初めにかけて、4/1の(地蔵祭り)祭りには吉久の餅撒とか……この祭りは米穀商、百姓等田畑や米倉で働く人々の祭りで餅草(ヨモギ)を入れた草餅をついて食べた。餅草は子どもたちが土手や河原へつみに出かけた。[0808-03.19]

○ 大正〜昭和
・大正から昭和にかけて(現 西照寺のあたりは)桑畑地で、この頃から人家が建ち始めて、昭和8年2月、吉久青少年会館が青年団長能松吉蔵の私財で建てられ、昭和9年消防組屯所も隣接して建てられ、この頃から人家が多くなり、昭和18年、御蔵の跡地に因んで御蔵町と名付けられた。[0808-01.78]吉久青少年会館の跡地は、今、通称三角広場と呼んでいる。[0808-01.78]

○ 大正7年(1918)
・御蔵材は民間にも払い下げられたらしく、一部は近在の味噌倉や納屋に再利用された。吉久では、大正7年、元御蔵材で建てられていた味噌倉を神明社境内(大宮、恒霊碑の前)に移転し、金属手押しポンプ置き場にした。ポンプは能町村費より吉久警備係への補助100円とあとは米商の寄付によってまかなわれたのであろう。[0808-01.78]
・第一町……大正7年吉久駅ができた。
[0808-03.119]
・あんころの宮には小さな獅子頭が奉納されている。破損して、角も耳もなくなってはいるが、吉久で最も古い物という。この獅子頭は、大正7〜8年頃、浅野喜作(松太郎・父)達あんころの若い衆が莚・縄等を編んだ手間賃を集めて造られたという。これより前に、行道系の流れをくむと思われる細長い古い獅子頭があったと伝える。[0808-03.32]

○ 大正10年(1921)
・この頃、日の出の町内のみで廻していたが、昭和の初期から日の出町から他の町内へ移った家や親類へ廻るようになり、後年、商店や招待があればどこへでも行くようになったが、どんなに遅くても夜の12時には終わった。[0808-03.32]

○ 大正〜昭和
・御蔵町……大正から昭和初期には桑畑で、この頃から人家が建ち始めた[0808-03.114]
・第一町……大正末頃から昭和にかけて、石灰工場跡が製材工場に変わったところが多く、■倉庫や米蔵ができ、人家も建ち並んだ。
[0808-03.119]

○ 昭和初期
・末広町……北側半分くらいは、昭和初期に家が建ち始めたもので、南側はそれ以前からあった。この頃、背戸町と称していた。
[0808-03.119]
・日の出町の獅子舞……昭和の初期から日の出町から他の町内へ移った家や親類へ廻るようになり、後年、商店や招待があればどこへでも行くようになったが、どんなに遅くても夜の12時には終わった。[0808-03.32]

○ 昭和2年(1927)
・手曳きガソリンポンプを置く。[0808-01.78]

○ 昭和6年(1931)
・吉久神明社(通称:大宮)、この頃、木の鳥居が朽ち果てたので■倉庫にお願いして、昭和14年、石の鳥居ができた。[0808-03.13]

○ 昭和7年(1932)
・第一町……昭和初期に川沿いの敷地が三井等の石灰会社に買収されたので、昭和7年頃にかけて、背戸町から伏木橋にかけて、川沿いから移転した人や吉久各村より分家、他町村よりの転入者で家が建ち並んだ。この頃、東側を栄町、西側を港町と称した。[0808-03.119]

○ 昭和8年(1933)
・2/、吉久青少年会館が青年団長能松吉蔵の私財で建てられた。[0808-01.78]
・御蔵町……吉久青年会館が建てられた。
(青年会館は、昭和26年のジェーン台風で傾き、28年に撤去された。)[0808-03.114]
・末広町……昭和8年頃、町の親睦団体末広会を結成し、これが戦時中末広町と称するようになった。[0808-03.119]

○ 昭和9年(1934)
・シボレー自動車ポンプ購入にあたり、(村予算3年間で4700円)広く村民の寄付を仰ぐため、能町村消防組が吉久・庄川土手で草競馬を行った。顧問 津野太右衛門、折田弥作、幹事 能松松太郎、大菅兵吾、加登佐左衛門等であった。青年会館(三角広場)横に消防屯所が新築、シボレー自動車ポンプを置き、旧ポンプ置き場は大菅兵吾が買い取り、北越鉄工所の倉庫にされ昭和40年代まであった。中曽根神社近くにあった二階建て白壁の大きな納屋は、ごく近年まであった。[0808-01.78]
・消防組屯所が吉久青少年会館に隣接して建てられ、この頃から人家が多くなり、昭和18年、御蔵の跡地に因んで御蔵町と名付けられた。[0808-01.78]
・御蔵町……消防組屯所も造られ、この頃人家も多くなり。[0808-03.114]
・西照寺……鐘楼堂建立。世話人・大谷宗七。[0808-03.18]

○ 昭和14年(1939)
・吉久神明社(通称:大宮)、昭和6年頃、木の鳥居が朽ち果てたので■倉庫にお願いして、昭和14年、石の鳥居ができた。[0808-03.13]

○ 昭和18年(1943)
・御蔵町……寺町と仲町が合併して、寺中町と称するようになった。また御法町又は宮町と呼んでいたのが合併して寺中町になったとも。[0808-03.116]
・第一町……昭和18年8月1日で、両町が合併して、吉久で一番の町になるよう願って、吉久第一町と名付けられた。[0808-03.119]

○ 戦前
・日の出町……戦前は「あんころ」とも称した。[0808-03.112]
・本町……戦前から昭和28年頃まで、浦町と称した。昭和28年から本町と称するようになった。[0808-03.115]

○ 戦時中
・日の出の町名は、戦時中に付けられた。[0808-03.112]
・西町……戦時中、各町内が名前をつけた時、吉久の西側にあたるので、西町と称するようになった。[0808-03.117]
・倉仲間の吉久三十二人衆も、戦時の米の統制により、隆盛をきわめた米商もその歴史をとじた。[0808-03.31]

○ 昭和23年(1948)
・宮中新神明社……4/25、国有財産であった土地を社地として登記。当時の責任者は、有藤久蔵、大谷宗七、能松宇三郎。元は旧公民館の所にあり、大宮と向かい合わせに建っていたのを、昭和31年、大宮に合祀。[0808-03.15]

○ 昭和25年(1950)
・9/2、ジェーン台風で青年会館が傾き、昭和28年撤去された。
 この跡地は、今、通称三角広場と呼んでいる。[0808-01.78]
・9/3、ジェーン台風。日の出町神明宮の社殿倒壊。[0808-03.10]

○ 昭和26年(1951)
・御蔵町……青年会館は、昭和26年のジェーン台風で傾いた[0808-03.114]
・尾崎定景「吉久日の出町鎮座神明社再建史」(S26)[0808-03.10]
・ジェーン台風(昭和25年)で日の出町神明宮の社殿倒壊。射水郡本江村針山部落の合祀後の社殿を譲り受け、昭和26年6/24御鎮座。翌25日盛大な奉祝祭を行う獅子舞の奉納あり。[0808-03.10]

○ 昭和27年(1952)
・吉久神明社(通称:大宮)に、M39年日露戦争の凱旋軍人によって建立された忠魂碑がある。昭和27年に、満州事変や太平洋戦争で戦死した方々も合祀し、功霊碑(写真[0808-03.25])とした。[0808-03.13]

○ 昭和28年(1953)
・御蔵町……青年会館は撤去された。[0808-03.114]
・青年会館に隣接した消防屯所も撤去し、地蔵宮を元の大宮の境内に移した。この時、地蔵宮の瓦をはずしてハサ木で木組をして消防団員がかついで西町を廻って、大宮まで運んだ。地蔵宮の跡地に消防屯所を新築した。[0808-03.20]
・西照寺……庫裡改築。世話人は島崎他吉、桑本為次。[0808-03.18]

○ 昭和31年(1956)
・宮中新神明社……元は旧公民館の所にあり、大宮と向かい合わせに建っていたのを、昭和31年、大宮に合祀。[0808-03.15]
・吉久神明社(通称:大宮)に、天満宮(新開の宮)合祀。[0808-03.13]
・(吉久は)戦後の高度成長時代には、公害問題も発生し、吉久ぜんそくとしてその名を全国に知られた。[0808-03.31]

○ 昭和37年(1962)
・公民館建築にともない地蔵宮は御寺にあった方がよかろうということで、御寺(西照寺)の境内に移された。[0808-03.20]

○ 昭和40年(1965)
・西照寺……本堂修復。上がり物各町より繰り出す。世話人は、桑本為次、能松松太郎他[0808-03.18]
・青年会館(三角広場)横に消防屯所が新築、シボレー自動車ポンプを置き、旧ポンプ置き場は大菅兵吾が買い取り、北越鉄工所の倉庫にされ昭和40年代まであった。中曽根神社近くにあった二階建て白壁の大きな納屋は、ごく近年まであった。[0808-01.78]

○ 昭和47年(1972)
・吉久神明社(通称:大宮)拝殿修理。大工棟梁:吉久与作。[0808-03.13]

○ 昭和51年(1976)
赤倉は昭和51年〜56年頃に解体されたが、瓦に日本郵船と入っており、壁の厚さは4寸(12cm)あったという。一般村民は、この荷造りや運搬に携わっていた。
 伏木で石灰工場ができ、製造されだすと、これに進出する米商もあった。
 景気の変動、特に米相場の急落により、没落する蔵仲間もあった。[0808-01.78]

○ 昭和54年(1979)
・六渡寺神明社……10/20、現社殿新築。日の出町の有志により獅子舞奉納。これが獅子舞保存会発足の起点となった。[0808-03.12]

○ 昭和61年(1986)
・西照寺……客殿新築。昭和62年5/17完工。獅子舞、上がり物出る。委員長吉田秀義。[0808-03.18]