二代目大仏の再建

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二代目大仏の再建と甚誉行阿筆『大仏殿由来記』

甚誉行阿筆『大仏殿由来記』明治12年 高岡市立中央図書館蔵甚誉行阿筆『大仏殿由来記』明治12年筆(高岡市立中央図書館蔵 0515_070615-002a.jpg)初代大仏が文政4年(1821)に焼失しましたが、その後の二代目大仏再建の具体的な内容を示す史料の一つが甚誉行阿筆『大仏殿由来記』明治12年(1879)です。(高岡市立中央図書館蔵)(0515_070615-002a.jpg)

二代目大仏が災禍に遭う(明治33年 1900年)以前、つまり大仏が「大仏殿」内に実在し、大仏及び富山極楽寺と直接的な関係を持つ守山極楽寺の住職である(※)甚誉行阿が、大仏を眼前にして書き上げたものです。そういう意味で、彼は二代目大仏の記録者としてもっとも相応しい人物の一人と言えそうです。

※ 甚誉行阿が守山極楽寺の住職だったかどうかについては確認中です。

「抑(そもそも)宝蔵ニ安置シ奉ハ阿弥陀佛丈六之尊体ナリ」から始まる本文の終わりに、その執筆年や筆者の名を直接示す記述はありません。高岡市立中央図書館のWeb版の目録(LinkIconこちら ※)でも筆者名は登録されず、出版年の項目も「刊行不明」になっています。いずれにしても筆者及び執筆年についてこれまで明確にされたことはなかったものと思われます。

※ [0515-20.24]でも「大仏殿由来記 筆者不明 出版地・出版者不明 刊年不明」とある。

しかし改めて見直してみたところ、本文から1ページをおいたところに、「明治十二年五月 安養山守山極楽寺 甚譽行阿謹誌」という記述が確認されました。またそれに続き、本書が書かれた経緯と思われる内容が記されていました。
2ヶ月前の同年(明治12年)3月、「吾カ堂宇モ灰燼」する大火に見舞われ、「大仏殿ニ寄留シ念仏ノ余暇旧記并ニ以伝承野言ヲツヅリ置所ナリ乞う願クハ后賢之ノ改正ニアヅカランコトヲ」と綴られていたのです。

こうした文章の内容から次のことが理解されるでしょう。
『大仏殿由来記』の筆者が、坂下町にある富山極楽寺と関係の深い守山の「安養山守山極楽寺」(山号「安養山」は富山極楽寺も同じ)の住職(※)甚譽行阿であること、執筆の2ヶ月前の明治12年3月の大火で守山極楽寺の堂宇が被災し、甚譽行阿は、おそらく現在地に所在していた大仏を納める「大仏殿」に身を寄せながら、念仏の合間に、大仏についての古い記録や古老から伝えられた伝承を記録していたということです。

※ 甚誉行阿が守山極楽寺の住職だったかどうかについては確認中です。

もしかすると彼は、二代目大仏再建の経緯を記したこの文章を前文扱いにして、本格的に「旧記并ニ以伝承野言ヲツヅリ置」く意図があったのかもしれません。しかし他にそう判断できる具体的な材料もないので、ここでは本文執筆の経緯を示した文末の文章と考えることにします。

さて、この資料については次のような評価を与えることができるでしょう。

初代及び二代目の高岡大仏について、近代以降では最も早い明治12年の段階で、その時点で明確だった基本的な事実を、実在している二代目大仏を目前にしながら、かつ高岡大火(明治33年)以前であるために存在していた種々の記録を得て、記録者としての強い意識を持った人物によって書かれた貴重な資料だということです。

○ 『大仏殿由来記』

『大仏殿由来記』に記された二代目大仏再建の経緯は下記の通りです。

甚誉行阿筆『大仏殿由来記』より(高岡市立中央図書館蔵)甚誉行阿筆『大仏殿由来記』より(高岡市立中央図書館蔵 0515_070615-006a.jpg)当町ノ住人田子源右衛門津幡太平両人志願ヲ発シ如何ニモシテ丈六ノ尊容ヲ彫刻センコトヲ謀リ有信ノ輩ニ浄財ヲ募ルコト年久シクシテ天保十二丑年ニ至リ京都大仏師山本□茂ノ門弟ニテ当所ノ住人山本與三兵衛□秀斧ヲトリ精進潔斎シテ日ナラス丈六ノ尊容ヲ以前ニ不劣彫刻ナリ

この文章から理解されるところを示します。
冒頭の「当町」は定塚町のことと思われます。そこに住む田子源右衛門(下記の「注」を参照)と津幡太平(下記の「注」を参照)の二人が再建の「志願ヲ発シ」、「丈六」(一丈六尺)の木造大仏建立のために浄財を集めたとあります。
そして初代の焼亡から21年を経た天保12年(1841)、京都の仏師山本□茂(茂秀?)の門弟で、「当所ノ住人」だった山本與三兵衛が彫刻したとしています。
以上からすると、天保12年が二代目大仏の建立年ということになりそうです。(ただし、下記『高岡開闢由来記』では天保13年とあります。)

そして、「斧ヲトリ……丈六ノ尊容ヲ以前ニ不劣彫刻ナリ」とありますから、二代目は明らかに木像であり、その大きさは丈六であることを知ることができます。
また文章の冒頭に「抑宝蔵ニ安置シ奉ハ阿弥陀佛丈六之尊体ナリ」とあるので、阿弥陀如来の像であることが分かります。しかし、彩色の様子等については知ることはできません。

なお、文章の前段に「去ル文政四年己ノ六月二十四日午ノ刻河原町ヨリ出火折節西南ノ風烈シク市中過半一時ニ焼失ス天ナル哉夜ニ入テ大仏殿モ灰燼ス」とあります。
この『大仏殿由来記』が、初代大仏の文政4年(1821)の焼亡を記録した最古の記録のように思います。(今後検証します)

○ 『高岡開闢由来記』

『大仏殿由来記』と同様、二代目大仏が焼亡する前、つまり大仏の存続中に作成された記録があります。『高岡開闢由来記』(明治30年)[0515-44]です。

文政四年六月火災、天保十三年再建成就せり。佛体金色舟御光背負、内に十三佛と千体具備せらるる。いづれも金色塗。彫工佛師山本與三平氏なり。[0515-44.10]

根拠は不明ですが、再建を天保13年としています。
「舟御光」すなわち船光背を背にした金色に彩色された大仏であることが知られます。(「内に十三佛と千体具備せらるる」については別コーナーで検討します)

「彫工佛師山本與三平氏」は『大仏殿由来記』に見える「当所ノ住人山本與三兵衛□秀」と同じ人物を指しているものと思われます。
また後年のものですが、昭和7年(1932)12月〜昭和8年5月の作成と考えられる大仏寺所蔵資料[0515-131]には以下の記述がありました。

文政六七年ニ渡リ第二十六世譲誉謙勝上人再建(仏師山本ナルモノ高岡出デノ人ニテ京都ニ上リ仏像師ニ就キ修行シ恵心形ヲ学ビシモノ)木造一丈六尺ノ座像舟後光付間口四間半、奥行六間ノ土蔵ニ納ム此ノ舟後光ニ十二光仏像ヲ付ス

「高岡出デノ人」というのは高岡出身の仏師ということでしょうか。あえてこう表現するということは、もしかすると逆に彼の本拠地が高岡以外だったことを示唆しているのかもしれません。

○ 注

・田子源右衛門
『天保九年 戌十一月廿二日 発表せし分限等差』(※)[0515-39.91]に、「坂下町 田子屋 源右衛門」とあります。時代も近いことから、おそらく同一人物と思われます。坂下町の住人なのでしょう。

・津幡太平 KT6 /「高岡史料第1集」p12に「津幡屋 太平」とあります。高岡市史が出典らしい/高岡市史(中巻)P815(打毀しの対象)

※ この資料については再確認の予定です。