二代目大仏の実像

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二代目高岡大仏の実像

高岡大仏の歴史調査の先駆者である冨田保夫氏を訪ねて、『高岡繁盛双六』に描かれた二代目大仏の絵を見せていただいたのは平成17年(2005)末のことでした。
三代目(現)大仏に比して、二代目に関する資料でかつ二代目存続時のものは大仏寺でも皆無のようです。その尊容を直接示すものとしては同絵図が唯一のものでしょう。
しかし複数の資料を付き合わせることで、双六のコマの絵の背後に隠れた二代目高岡大仏の全体像に少し近づけたような気がしてきます。
 

○ 『高岡繁盛双六』に見る二代目高岡大仏

高岡市立博物館所蔵になる明治33年1月刊の「北陸中央新聞社付録」『高岡繁盛双六』より二代目高岡大仏の画像『高岡繁盛双六』(明治33年1月刊「北陸中央新聞社付録」高岡市立博物館所蔵 より。なおお顔の両側、矢印の先に見えるのが化仏のようです。冨田保夫氏から教示を得ました。(0515_060617-062a.jpg) 
右図が二代目高岡大仏の姿を今に伝える絵図です。
明治33年(1900)の高岡大火で焼失する半年前、同年1月に「北陸中央新聞社付録」として世に出た『高岡繁盛双六』(高岡市立博物館所蔵)です。
 
双六の「ら」のコマに配されたのは、左右に化仏のある光背を背に、螺髪のある頭部から胸部までが描かれた二代目大仏の姿です。
 
そして、絵の中で特に私たちの目を引いたのは、中段左手に見える、庇らしきものを備えた土蔵のような建物でした。おそらく入口の奥には二代目の大仏が安置されていたのでしょう。
 
コマの左下隅には、感動の余り声を詰まらせたような表情で大仏を指さす人の姿があります。建物の中の人物を描いたわけですが、なかなか工夫のいった描写ですね。
 
記された文章は、
「大佛 定塚町にあり 図の如く安置せらる
 老若の信心者は必ず礼拝に行くなり」
と読み取れます。([0515-28]を参照)
 

○ 二代目大仏と新湊大仏(吟松山 光山寺)

富山県射水市八幡町二丁目にある吟松山光山寺蔵の新湊大仏の画像新湊大仏(吟松山光山寺蔵 富山県射水市八幡町二丁目) 
ところで、私たちはビデオ製作のための取材の過程で、紀行文(LinkIcon『應響雑記』『五ヶ山大牧入湯道之記』)の内容から読み取れる二代目大仏と同じ特徴を備えた実在の仏像を見つけました。
 
その仏像は、富山県射水市八幡町二丁目の吟松山 光山寺(こうさんじ)という、大仏寺と同じ浄土宗の寺にありました。
 


新湊大仏が安置されている土蔵の画像新湊大仏が安置されている土蔵(ビデオ「高岡大仏 歴史編」より)右図の土蔵に収められた丈六の木造阿弥陀如来坐像で、近年は新湊大仏と呼ばれ親しまれているそうです。
 
ただしお断りしておかなければならないことがあります。高岡の二代目大仏と何らかの歴史的な関わりがあったかどうかという点についてはまったく不明です。あくまで、史料から読み取れる内容と新湊大仏の姿が似通っていることに注目しているに過ぎません。映像表現上は非常に重要な要素ですが。
 
新湊大仏について下記のホームページより引用します。
LinkIconhttp://www.jodo.jp/18-014/
○ 丈六阿弥陀如来尊像(新湊大仏)再興略縁由
光山寺に残る新湊大仏について記された古文書光山寺に残る新湊大仏について記された古文書(光山寺蔵)「丈六阿弥陀如来尊像(新湊大仏)は、松平康定により発願、1682年(天和2年)に建立され、金沢市妙慶寺より放生津へ移転されました。1845年放生津大火により仏堂、後光、蓮台焼失し尊像荒廃しまた。1856年(安政3年)光山寺境内に土蔵の仏堂新建、丈六阿弥陀如来尊像(新湊大仏)を補修、後光、蓮台作成し、後光中に十二光佛並びに九品の弥陀を安置しました。知恩院七十一世大僧正万誉顕道上人が開眼式を行い、「法王殿」の額字を寄進されました。1864年後光中に千体佛奉安を発願。現在まで3,000体余り奉安されています。」
 

○ 紀行文が伝える二代目大仏の実像

次に、2点の紀行文に記録された二代目大仏の特徴点を抜き出しましょう。
 
史料A(『應響雑記』天保13年(1842)5月5日)
御丈ケ壱丈六尺蓮花臺八尺其外ニ御舟光雲小仏千躰皆弥陀尊中仏十二躰大仏尊ハ釈迦尊仏也いまた白木地ニ而御堂ハ土蔵造り也
 
史料B(『五ヶ山大牧入湯道之記』天保13年(1842)8月20日)
定塚町ニ木像ノ大仏建立丈六ノ座像化仏多シ堂土蔵造リ三間半也
 
大きさについて史料Aに「御丈ケ壱丈六尺」とあります。こちらもいわゆる丈六の仏像で、また史料Bに「座像」とあるので、一般に言われているように8尺ないし9尺が本体の大きさだったと考えられます。
また史料Aに「蓮花臺八尺」とありますから、蓮華台と本体を合わせて16尺(約4.9m)ないし17尺くらいの大きさだったと思われます。
 

○ 二代目大仏の光背について

さて、問題なのは史料Aの「其外ニ御舟光雲小仏千躰」以降の内容です。
私たちはそこに示された情景を光山寺の新湊大仏に求めました。
大仏の背中の光背が舟の形をしていることを示す新湊大仏の画像新湊大仏(光山寺蔵)ビデオ「高岡大仏 歴史編」より。大仏の背中の光背が舟の形をしています。光背の雲気紋の画像光背に彫り出された雲気紋(光山寺新湊大仏 ビデオ「高岡大仏 歴史編」より)。二代目高岡大仏にも同様の雲が描かれていたのでしょう。左図をご覧下さい。
 
「御舟光雲」とは、舟の舳先の形をした舟光背(舟形光背)と呼ばれる光背を意味します([0515-79.64]参照)。
4文字目の「雲」は、光背に描かれた雲の文様で、雲気紋と呼ばれるものでしょう。
 
新湊大仏の小仏新湊大仏の小仏(千体仏)(光山寺蔵) 

その光背に小さな仏「小仏」が千体と言えるほどたくさんあったということのようです。史料Bの「化仏多シ」も同じ意味を持った表現だと思います。
 
さて、それに続く「皆弥陀尊」とあるのは、小仏の尊名が阿弥陀如来であるこを示しているのでしょう。
次に「中仏十二躰」とあります。
要するに、本体である「大仏」の次に大きい「中仏」が12体あるということ、そして一番小さいのが「小仏」ということから、大きさで大中小と区分する表現であることが分かります。
その12体の中仏というのは、いわゆる十二光仏と呼ばれるものでしょう。
 

○ 二代目大仏の「釈迦尊」説

ただ不思議なのは、その次の「大仏尊ハ釈迦尊仏也」です。両史料に次いで古い記録である『大仏殿由来記』(明治12年)の冒頭には「抑宝蔵ニ安置シ奉ハ阿弥陀佛丈六之尊体ナリ」とあります。
『應響雑記』で「釈迦尊」だったとする理由や背景は不明です。
 

○ 「佛体金色舟御光背負」(『高岡開闢由来記』)

天保13年の両史料から得られる情報は以上の通りですが、そこで触れられていない情報があります。
例えば、二代目大仏焼失前に世に出た『高岡開闢由来記』(明治30年)[0515-44.10]がその一つです。以下が記されています。
 
佛体金色舟御光背負、内に十三佛と千体具備せらるる。いづれも金色塗。
 
「佛体金色」「いづれも金色塗」は、大仏が金色に輝いていたことを示します。天保13年の2つの史料(うち『應響雑記』には「いまた白木地」とある)にも、明治12年の『大仏殿由来記』にも、金色とする情報はありません。事実とすれば『高岡開闢由来記』が最初の記録ということになります。
さて「舟御光背負」は、光背が舟光背であることを示します。『應響雑記』の「御舟光雲」と同様です。
「内に十三佛と千体具備」の「内」というのは、光背の内側(光背の表面)という意味なのでしょう。「千体具備」の方は、『應響雑記』の「小仏千躰」に通じる内容です。さて、その前の「十三佛」が問題です。
 

○ 「十三佛と千体具備」(『高岡開闢由来記』)

光背の先端の仏堂の中に収められ仏像光背の先端の仏堂の中にも収められている(新湊大仏 光山寺蔵)明治40年に大仏寺再建事務所が作成した「応募者人名簿」に記載の図大仏寺再建事務所作成(明治40年)『応募者人名簿』より(大仏寺蔵)あて推量に過ぎませんが、「十三佛」というのは、もしかすると十二光仏に、最頂部の祠の中の中仏を足して数えた称なのかもしれません。(左図参照)
現在の新湊大仏でも、舟光背の先端部の祠に1体の仏像が収められていました。
 
これに関連する資料があります。(右図参照)

右図は二代目大仏焼失後に銅像での再建を目的に作られた、明治40年(1907)の作成と推定される図です。これにも舟光背の先端の塔に仏像が描かれているように見えます。焼失した二代目大仏に近い姿で再建しようと、似せて作った図のようにも考えられるのですが。
それとも所謂「十三仏信仰」と何か関わりがあるのでしょうか。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/十三仏 などを参照下さい。)
 

○ 土蔵の大きさについて

ところで、史料Aの「御堂ハ土蔵造り也」の内容は、史料Bの「堂土蔵造リ三間半也」で間口の長さが補足されています。その土蔵の様子を示したのが『高岡繁盛双六』の絵であり、それをイメージするのに参考になるのが、大仏を収め近年復元整備された光山寺の土蔵です。
 
それらとは別に、資料[0515-131](昭和7年(1932)12月〜昭和8年5月の間に作成)には、「間口四間半、奥行六間ノ土蔵ニ納ム」という記述があります。奥行の長さに言及している点で重要です。ところが、史料Bでは「三間半也」とあり、間口に1間の違いがあります。
昭和に入ってからの記述であり、方や90年前の記録です。この相違は改築等によるものかもしれません。
 

○ 二代目大仏の所在地と土蔵表示(高岡市立博物館所蔵絵図)

さて、もう一点資料を紹介しましょう。それは高岡市立博物館所蔵『高岡御旅屋桜馬場并字枇杷杉等御林所開拓地元分間絵図』(明治3年 1870年)で、二代目高岡大仏の安置場所(土蔵)を示すものと思われます。建物とともに文字「大佛」が記されています。
 
『高岡御旅屋桜馬場并字枇杷杉等御林所開拓地元分間絵図』明治3年(1870)高岡市立博物館所蔵。矢印の先の建物が二代目大仏の安置場所でしょう。『高岡御旅屋桜馬場并字枇杷杉等御林所開拓地元分間絵図』明治3年(1870)高岡市立博物館所蔵。矢印の先の建物が二代目大仏の安置場所でしょう。(0515_070417-002a.jpg) 
天保12年(1841)の再建から30年ほど後の絵図ですが、現在の三代目大仏の所在地とほぼ同じ位置であることが分かります。
一つ注目したい点があります。この建物だけ、同図中の他の建物と表記方法が異なることです。
 
『高岡御旅屋桜馬場并字枇杷杉等御林所開拓地元分間絵図』(部分)高岡市立博物館所蔵(0515_070417-018a.jpg)『高岡御旅屋桜馬場并字枇杷杉等御林所開拓地元分間絵図』(部分)高岡市立博物館所蔵(0515_070417-018a.jpg)他の建物(左図B)が妻側も表現した立体的な書き方をしているのに対して、こちら(左図 A)は平板で、かつ建物を真っ正面から見て、あたかも壁の厚みを示しているような描き方をしていることです。
それはまるで厚い壁で覆われた土蔵であることを意識した表現ようにも見うけられます。二代目大仏を収めた土蔵を表しているものと考えます。
 
この図に関連して、補足したい新聞記事がありますのでご紹介しましょう。
明治44年4月15日に三代目大仏の御面像の鋳造が行われた時の高岡新報の記事「大仏の復興を喜ふ」です。
 
「往時大仏の存立したる時に在りては堂宇を廻りて諸種の商店、売店隣接し外来者従つて多く大仏前なる通称すら伝承せらるる殷賑雑踏を極めたるの地なり」
 
「往時大仏の存立したる時」というのは、二代目大仏がまだ存続していた時代を指しています。その当時は、堂宇の周囲にさまざまな商店や売店が並んでいたとあります。それらは仮設のものだったのでしょうか、それとも明治初期とは状況が異なるのでしょうか、この絵図にはそうした建物は描かれていません。
 
いずれにしても、今の観光客や信者(信徒)を指すのでしょう、そうした「外来者」も多く、「商店、売店隣接」する一帯が「大仏前」という通り名になっていたほど、広く知られた賑わいを持った場所だったことがうかがえます。
 

○ 終わりに

以上の通り、不分明な点はまだまだありますが、今回の映像製作に伴う取材によって、これまでほとんど明らかにされてこなかった二代目高岡大仏について、幾分かその実像に迫ることができたのではないかと思います。
 
なお、絵図『高岡御旅屋桜馬場并字枇杷杉等御林所開拓地元分間絵図』についても冨田保夫氏の教示により知り得たものでした。以上の報告も冨田保夫氏の先駆的な調査成果を継承して得たものと考えます。