高岡大仏と高岡市生産共進会

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高岡大仏と高岡市生産共進会

山下勝利氏蔵の画像「高岡大仏御面像竣工紀年鋳造員」写真「高岡大仏御面像竣工紀年鋳造員」(山下勝利氏蔵 0515_070616-057) 
私たちの三代目銅造高岡大仏における主要な関心事の一つは、「御面像」の鋳造日でした。
写真は明治44年(1911)9月11日に撮影された「高岡大仏御面像竣工紀年鋳造員」(資料《0722-01》)と題する御面像竣工時の記念写真です。
 
最上段右端の恰幅の良い人物が、三代目大仏の「再建惣代人」である松木宗左衛門です。再建の第一段階の仕上げとも言える御面像の鋳造式は、その5ヶ月前、明治44年4月15日に行われました。
 


山下勝利氏蔵の画像「高岡大仏御面像竣工紀年鋳造員」より松木宗左衛門松木宗左衛門(「高岡大仏御面像竣工紀年鋳造員」より 山下勝利氏蔵 0515_070616-057) 
松木たちはなぜその日を鋳造日に設定したのでしょうか。
理由を探ってみることにしました。
 
※ 初期の段階でまず御面像が鋳造されたこと自体が注目すべきことと思われます。


 

大仏の頭部と御面像

明治43年(1910)9月付の「高岡大仏鋳造工料請負契約書」「高岡大仏鋳造工料請負契約書」明治43年(1910)9月付(大仏寺蔵) 
松木宗左衛門が大仏の頭部の鋳造を「高岡大仏鋳造工料請負人」の山下清右衛門へ委託した際の契約書『高岡大仏鋳造工料請負契約書』(明治43年(1910)9月付 0515_060802-136.jpg〜)が大仏寺に残されています(左図)。その中に、
「本年(注:明治43年)十一月二十日マテニ竣工ノ上惣代人ヘ引渡スヘキ事」
とあることから、9月の契約から足かけ3ヶ月以内に鋳造を終え引き渡す予定だったことが分かります。
しかし残された資料を見るかぎり、翌年(明治44年)の4月15日まで鋳造が行われた形跡はありません。
 
そこで当初私たちは、何らかの理由で鋳造が半年近く遅れてしまったものと推量していました。明治44年4月15日付の富山日報に
「此の大仏鋳造に就ては定塚町、坂下、宮脇町などの人々と金屋町の人々とが大軋轢を来たし一時は随分紛擾を醸せし事ある」という記事が、そうした推量を後押しする材料の一つになりました。
 
ところが、その解釈は誤りだったようです。私たちは、前者(明治43年契約)の「頭部」と後者(明治44年鋳造)の「御面像」を同一のものと早とちりしていたのです。
 
可西泰三『銅炎』に「頭部と顔と螺髪の鋳物は別個に鋳造」[623-03.127]とある通り、螺髪もですが、頭(頭部)と顔(御面像・御尊顔)は別々に鋳造されていたのでした。契約書には以下の記述があります。
 
一 請負人ハ金参百五拾円ヲ以テ高岡大仏頭部(頭髪不着)一個ノ鋳造工料ヲ請負フモノトス
 
明治43年11月までに竣工予定だったのは「頭部」だけで、この頭を除く顔部は明治44年4月に鋳造されたものと考えられます。
 
銅炎掲載の図(画像掲載予定)
 
注…当時の記録や新聞記事が顔の鋳造について触れた文章では、「顔面」「面像」「御面像」「首」「首像」「お首像」といった言葉が大仏の顔を表す用語として使用されていました。例えば、「此の鋳造起工式を行ふは八尺のお首像(くびぞう)で」(富山日報 M44.04.16《1029-004》1911-0416-A001、0515_061029-004.jpg)とありますが、「八尺のお首像」というのはいわゆる首(頭と胴体をつなぐ部位)のみでなく、「八尺」(約2.4m)ある顔の大きさを表しています。(一般に、「顔」は「頭部の正面である」という説明があります。「顔」「頭」そして「首」を含め用語の混乱には注意が必要です。)
 
高岡市教育委員会が建てた掲示板「高岡大仏尊像相好御説」掲示板「高岡大仏尊像相好御説」(高岡市教育委員会) 
『銅炎』p155に掲載された図では、顎から頭の最頂部まで(顔と称している)2.27mと記されています[623-03.155] なお、現在の高岡大仏の左手(東側)にある掲示板(高岡市教育委員会)「高岡大仏尊像相好御説」にも各部の寸法が示されています。
 


 

共進会の真最中の鋳造式

 
左の桜馬場公園と右の高岡物産陳列場の画像。ともに高岡市立博物館蔵。左 桜馬場公園(明治42年 0515_070417-243)、右 高岡物産陳列場(明治42年 0515_070417-260)……ともに、高岡市立博物館蔵。 
 
さて、ある時以下の新聞記事に出会いました。
「高岡の名物の大仏さんは共進会の真最中なる今日の吉辰を卜し面像の鋳造式を挙行する運に至った」
(高岡新報 M44.04.14《1102-006》0515_061102-006.jpg)というものです。
 
共進会とは何でしょう、そして共進会の「真最中」に鋳造式(鋳造起工式)が挙行されたことにどのような意味があるのでしょうか。
 
共進会とは「高岡市生産共進会」が正式名称で、「高岡市生産共進会規則大要」(高岡新報 M44.04.05)によると、
 
高岡市立博物館蔵の高岡市生産共進会記念絵葉書高岡市生産共進会記念絵葉書(0515_070417-307 高岡市立博物館蔵)「本市産業の発展を企図せんが為め明治四十四年四月五日より二十日まで日数十六日間高岡市桜馬場公園内高岡物産陳列所に於て開設す」とあり、また「協賛会規則大要」(同紙)には
「高岡市生産共進会を翼賛し盛況を添ふる為め左の事業を行ふものとす」として以下を挙げています。
A. 新古美術展覧会(会場=瑞龍寺)
B. 記念絵葉書発行
C. 余興及び装飾等を行う
 
実際にそれ以降の記事を調べてみると、新古美術展覧会を開く、桜馬場で大花相撲を行う、協賛会ビアガーデンを開く、そして「公園の芸妓手踊り射水神社の舞楽又大人気にて市内の雑踏言はん計りなし」と、相当に派手な演出で「共進会を翼賛し盛況を添ふる」イベントを行っていたことが分かります。
 
そして、Bの「記念絵葉書発行」の成果が、協賛会発行になる「高岡市生産共進会記念絵葉書」です(左図)。
 
その共進会のクライマックスが4月15日午後開催の褒賞授与式でした。そして、同日午前中に行われたのが大仏の鋳造式です。
 
 

松木宗左衛門らの術策

共進会審査長の永井金次郎事務官(富山県知事濱田恒之助共進会総裁の代理)は、午後の授与式だけでなく、午前中の鋳造式にも参加していました。
 
共進会会長の松島喜五郎高岡市長も同じスケジュールだったのですが、市長は鋳造式参列の際に大怪我をして午後は欠席しています。
 
その他、共進会の褒賞授与式に出席予定の要人達の多くが同じ予定を組んだものと思われます。……松木らの狙いの一つはそこにあったのではないでしょうか。
そうして彼らは、大仏鋳造式だけでは集まらない重立った人たちや報道陣(記者)を呼び込むことに成功したのだと思います。
右の囲みに、当日の様子を生々しく伝える記事を挙げておきましょう。
 
なお、「知事代理  事務官」と、2文字分が空白になっていますが、「永井」事務官(永井の字が抜けていた)でしょう。また、「堝壺」は坩堝のことで、以下一部のルビは原文を踏襲しここでは( )内に表示しています。
 

右の記事が示すように、わざわざ永井事務官らの到着を待ち、彼らのために「仮桟敷を設けて優待」するなど、松木らの奮闘ぶりが伝わってきます。
 

『富山日報』(明治44年4月16日)

「高岡大仏の面像鋳型出来に付昨十五日を卜し大仏事務所前空地に於て之れが鋳造起工式を執行したるが之れより去る十三日夜十二時首像鋳型を焼く為め三千貫の割木を焚燃したり此の間三十余時間にわたり地金は昨日午前七時より十一時頃までに溶解すべく五貫目炭二百俵を焚き尽くすなと実に驚くべきものあり軈(やが)て知事代理  事務官を始め県会議員、市会議員、同市長、助役有志新聞記者等の臨場あるを待ち地金五十貫宛を溶解せる八個の堝壺(るつぼ)を八尺余ある鋳仏(えがた)の縁に持ち運び湯汲みと称する金杓に酌み取りては鋳型の中に注入したり其の注ぎに総計三十二あり溶解せる四百貫余の地金を交るがわる汲みては之に傾注したるを起工式とは云ふなり此の光景を観覧に供すべく招待したる人員は総数七百余名、斯く多数人員の場所なき為め何れも一方の入口より入場して右の光景を観覧しつつ一方の出口に出づべき順序となしたるが特に知事代理一行等の為めに仮桟敷を設けて優待したり尚ほ同工場の堝壺を据えつけある周囲には七五三(しめ)縄を張り且つ其の正面には三方に塩を盛り酒樽とを添へて悪魔の面に供して悪魔除と為すなど珍らしき鋳造起工式とて大に観覧者を驚かしめたり」(『富山日報』M44.04.16《1029-005》1911-0416-A003、0515_061029-005.jpg)

銅器と高岡市の印象を深からしむるに効果

こうしてみると、松木宗左衛門は寄付金集めに奔走する篤信家というだけでなく、有能なプランナー、したたかなプロデューサといった人物像としてイメージすることができます。
 
注:松木宗左衛門は、一般に『高岡の文化財(図録)』[0515-01.96]の記載にあるように
「市内はもとより広く各地に勧進して涙ぐましい努力を続けた」として、“努力の人” “一途な人”と見られる傾向があります。どちらかというと、これまでは地味なイメージが定着していたように思います。しかし実際はもっと野心的、躍動的な人物だったように思えます。
 
彼は、ある段階で4月のイベント(共進会)のことを知り、それが最高潮に達する"時"(褒賞授与式)を選んで鋳造式の日時(明治 44年4月15日の午前)を決定した、というのが真相だと私たちは考えます。
ただし宗左衛門のそうした考えを直接示す資料は見つかっていません。しかしその成果と課題についての語り部がいました。(右図の記事を参照下さい)

『高岡新報』(明治44年4月17日)

「本市は夙に其名のあらわるゝと共に近事花の桜馬場又た一名物として遠近に喧伝せり特に吾人は此の桜花時に際し、生産共進会、新古美術展覧会は開かれ、花の高岡に一精彩を添えしのみならず、時恰も古来一名物の大仏は単に其の面像ながらも鋳造さるゝに至れるに会ふ……而して今回の鋳造は単に面像に止り今後尚ほ体形全部の鋳造を為すには其の基金等現時に数倍せん、亦た以て容易の業にあらず望むらくは全市人悉く此の壮挙に賛意を表し同情を加へ充分の後援を以てし首尾好く鋳造を完成し得ば多数の外来者を誘引するの動力となるのみならず更に銅器の主産地にして此の如き宏壮崇厳なる仏像を鋳出さるゝなりと技術の紹介となり一層銅器と高岡市の印象を深からしむるに効果あるべきを信ず敢て市人の一考を望むや切也」(『高岡新報』M44.04.17《1029-009》0515_061029-009.jpg)

大仏寺蔵の松木宗左衛門の肖像写真 松木宗左衛門(大仏寺蔵) 
松木らの主張は、この記事が示すとおり、
「今後尚ほ体形全部の鋳造を為すには其の基金等現時に数倍せん」
「全市人悉く此の壮挙に賛意を表し同情を加へ充分の後援を以て」
というところにあります。

すなわち、木像再建予算8550円の4倍を超す銅像再建費37778円の捻出にあります。さらに完成の暁には、大仏が
「多数の外来者を誘引するの動力」(観光目的か)となり、
「銅器の主産地にして此の如き宏壮崇厳なる仏像を鋳出さるゝなりと技術の紹介」
「銅器と高岡市の印象を深からしむるに効果」があることを理解してもらいたかったのだろうと思うのです。
それは銅器業界の実状が “確かな技術” から隔絶していたためのように思われます。次の話には驚ろかされました!
 
 

高岡銅器の地位回復へ

明治44年4月11日の『高岡新報』に掲載された記事「廉価の高岡銅器(上)」より。『高岡新報』「廉価の高岡銅器(上)」(明治44年4月11日  1911-0411-B001.jpg 北日本新聞提供) 
明治44年4月5日に閑院宮殿下一行が共進会に来られた時、「御一行何れも高岡銅器の安価なるに太(いた)く驚かれ」云々という文章があります。(「高岡新報」M44.04.11 1911-0411-B001.jpg) その中で記者は、
 
(御一行が)
「東京へ御持帰りの後若しや粗製濫造の傾きあるを御気付きに相成りはせぬか、例へば花瓶から底漏り等を生じて」と心配します。
 
『高岡銅器史』[623-11.521]も触れていますが、この時代まだまだ信頼回復には至っていなかったようです。

共進会が、そして大仏が、高岡銅器の地位回復に一役買う使命を課せられていたように思われます。また、共進会開催時は、「工業立県構想」を提唱する濱田恒之助の知事時代(M43.06.14-T04.08.12[0515-90.554])でしたから、御面像鋳造に「工業立県構想」の広告塔としての役割を(意図的に)担わせた可能性もあるように思います。
 
ところで、明治44年4月に高岡で開催された高岡市生産共進会については高岡市史には取り上げられていないようです。富山県史は未確認です。この件(共進会・新古美術展覧会・大仏鋳造式……明治44年4月)について先行した調査成果等があればぜひ知りたいところです。お気付きの点があればお知らせ下さい。よろしくお願いいたします。