4. 蔵前における米と金の動き(A. 札差とは何ぞや)

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4. 蔵前における米と金の動き(A. 札差とは何ぞや)

御蔵周辺の状況御蔵周辺の状況(クリックで拡大します) 

 
左図は浅草御蔵の周辺部を抜き出したものです。ここでは御蔵を中心に繰り広げられた米と金の動き、関係者たちの関わり方を、多少の推測を交えながら見ていくことにします。
 
小揚者
諸国から船で運ばれた米は、小揚者と呼ばれる人夫たちによって陸揚げされます。この仕事に従事した小揚者はだいたい300人前後、小揚頭・杖突・平小揚で構成され、図中①の「小揚ケ者組屋敷」が彼らの役宅でした。寛政2年(1790)その数は、それぞれ18人・27人・244人で、10俵1人半扶持という御扶持をいただく者もありましたが、大半は給金3両1人半扶持の、いわゆる三一と呼ばれる最下層の武士でした。
こうして集められた米は、寛政6年に猿屋町火除地に設けられた回米会所(図中②)による検査を経て蔵に収められます(図中③)。幕末には、合計67棟354戸前の蔵が建ち並び、毎年ほぼ40万石の米が出入りしていたと言われています。

御借(切)米手形(手形の雛形)の表(おもて)の画像御借(切)米手形(手形の雛形)の表(おもて) (幸田成友『日本経済史研究』p131より) 

蔵米請取手形と書替奉行
年に3度の蔵米の支給は札旦那である旗本・御家人が各季に蔵米請取手形を作成し、勤務先の上司である頭支配に提出することから始まるようです。手形の雛形(左の文)が示す通り、「表書之通可有御渡候也」と裏書きをしている「小倉但馬守」が「日光奉行支配吟味役」である札旦那(「何某」)の頭支配です。札差は札旦那の屋敷を回って、裏印がなされた手形を預かり、まず書替奉行(御切手手形改)の役宅(図中④)へ届けます。
 
表と裏にそれぞれ、書替奉行である吉岡栄之助と垣屋義輔の2人の名が見えます。勘定奉行支配、持高勤めで役料200俵の旗本2人が交替で勤務にあたっていました。彼らの下に33人扶持の手代9人ずつがいて、役宅内の長屋に住んでいたようです。
書替奉行に持ち込まれた手形は、備え付けの印鑑リストと照合されます。要するに旗本・御家人が差し出した請求書の正確なことを確認する作業です。札差は書替奉行の裏印を得て、今度は御蔵役所へと向かいます(図中⑤)。

御借(切)米手形(手形の雛形)の裏の画像御借(切)米手形(手形の雛形)の裏 

御蔵奉行
御蔵役所はちょうど六番堀の突き当たりに位置しています。責任者である御蔵奉行は、書替奉行と同じく役料200俵取の勘定奉行支配で、定員は時期により3名から9名へと変化しますが、そのうち2名の役宅を御蔵役所のすぐ西側に見ることができます(図中⑥)。仕事は蔵出米の出納、保管、御蔵の営繕監督等です。実務に携わる手代は50人ほどで、南北に連なる蔵と平行して彼らの住まいがありました(図中⑦)。
 
御蔵役所の業務の一つに、翌日蔵出しする米高の算出作業があります。つまり、御張紙値段が指定する米金の支給割合に従って搬出される米の量を表すものと考えられます。その内訳が、札差の代表者である札差行事によって詰所に張り出され、仲間内へも回覧されるということです。ちなみにここで言う詰所とは図中⑧の札差行事詰所のことと思われます。現在はすでに廃絶していますが、かつてそこにあった福祥院の奥座敷が札差たちの寄合の場になっていました。

玉落ち・庭相場
御蔵役所へ札差が持ち込んだ手形の書替奉行による裏印確認の後、玉落ちと呼ばれるくじ引きによって支給の順序が決められます。そうすると、御蔵役所に詰めていた札差が、それぞれの札旦那に蔵出しの日程の知らせに向かいます(玉触れ)。次に、蔵から受け取る米について、入米すなわち札旦那方の飯米として屋敷へ届ける分(あるいは舂入へ渡す分)と、払米すなわち御蔵庭(御蔵の庭先)で売り払う分の割合について札旦那の意向を確かめ、実際に売り払われる米の量を確定します。
 


こうした過程を経て、札差行事は御蔵庭での米の相場をはじき出し、奉行所の許可を得て掲示し仲間内に知らせます。これが庭相場あるいは蔵前相場と呼ばれるものです。両者については、「蔵米取にとっては、御張紙値段と蔵前相場が一般諸物価よりも高いことが有利であり、逆に御張紙値段が物価引き下げの手段として安く決定された場合には不利となった」(末岡照啓「天保の無利息年譜返済令と札差」より)といいます。実際のところ、享保期(1716~1736)特に10年代は異常とも言える米価低落が続き、そのため蔵米取たちの窮乏を救うべく、幕府は意図的に御張紙値段を高値に設定したと言われています。

札差の手数料収入
いずれにしても、札差はこうした複雑なシステムの中でなくてはならない存在になっていたと考えられます。それにしても札旦那から書替奉行・御蔵役所へと走り回る札差が得る収入は、いったいどれくらいだったのでしょう。
扱う米100俵について、俸禄米の受け取り手数料が金1分、米問屋への売却手数料が金2分と定められていました。

 
しかし実際には、馬方・車力・舟方への運送費がかかるわけで、さらに、売りさばきの手続きを行う売方に金2朱を支払われなければなりません。(売方の一派は背附仲間と呼ばれ、図中⑨の札差附売方詰所が彼らが日常出入りする場所になっていました)
収益の大半を金融から稼ぎ出し豪奢な生活を送る札差にとって、手数料収入はあくまで、札旦那へのサービスの一環に過ぎないものだったようです。