5. 札差金融業(A. 札差とは何ぞや)

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5. 札差金融業(A. 札差とは何ぞや)

札差金融システム
札差の本来の業務は、蔵米取り幕臣の蔵米の請払い(換金)だったのですが、そこから得られる手数料(米100俵につき金3分)は、実際にかかるコストと相殺される程度の金額にすぎませんでした。札差が豪勢な生活を営むことができたのは、下図に示すように、札旦那からの金利収入(元金・金利)でした。  


もう一度整理すると(下図参照)、御張紙が規定する割合で支給された米のうち、入米を除いた払米を蔵前相場で米問屋に売り払って現金化します。そして、その中からこれまで札差が札旦那に貸し付けていた貸付金の元金と金利を差し引いて、残りの金を札旦那に届けるというのが札差金融における回収の基本システムだったわけです。

札差金融システム

棄損高
 
 金百十八万七千八百八両三分と銀四匁六分五厘四毛
 
上の数字は寛政元年(1789)に幕府から申し渡された棄損高、つまり、天明4年(1784)までにたまっていた、札差に返済しなければならない札旦那の借金の総額で、棄損令はこれを帳消しにするという沙汰でした。しかしそれは、当時の札差96軒にとっては言うまでもなく大損失で、幕府は、札旦那への貸し付けに支障が生じないよう札差を救済するため、札差に対して御下げ金2万両と御勘定所御用達等の出資を行い猿屋町に御改正会所(猿屋町会所)を作り、年利6%という低利で札差へ資金を提供しました(LinkIcon図中⑩)。
 

 札差の取扱高と金利
1軒の札差の取扱高がどれくらいなのかというと、例えば文政2年(1819)の調査では、札差の泉屋甚左衛門店が64,000俵余りで、それは札差業界第3位に位置したとあります。また同店の天明8年(1788)時点での貸付額は42,500両にものぼっていたそうです(脇田修「札差業と住友」)。では、札旦那に貸し付けられる際の金利はどうだったのでしょう。享保9年に札差株仲間の公許を願い出たとき、札差たちは、これまでの年利率25%を20%に引き下げて申し出たのですが、最終的には公定の15%に3%の助成料を足して、ほぼ18%で決着するに至りました(後に18%が公定金利になります)。
しかし実際にはそれが守られない場合があり、時にはとてもあくどいやり口で稼ぎ出す輩もいたようです。例えば奥印金がその方法の一つでした。

奥印金と月踊り

  • 手前に有之金子を他之金子分ニ致、奧印金と申証文を為致、礼金を取、証文書替候度々ニ礼金取候ニ付、重々之礼金ニ成、拾五両壱分之定ニ而も至極高利ニ相當り……

奥印金というのは、上記の通り、自己資金の不足した札差が他の金主に頼み込み、札旦那が提出する証文に保証人として奧印(保証印)を捺してやる代わりに、札旦那から高額の礼金を取るというものです。そして期限がきても札旦那が返済できない場合には証文書替となるわけですが、この時にも礼金を要求するという横暴ぶりで、もともと他の金主から借り出したというのも偽りのケースが多かったとされています。

 さらに月踊りといって、証文書替の際に1ヶ月分の利子を二重取りするといった姑息な手段がとられたこともありました。その結果、安永6年(1777)には取り締まりのための一斉検挙が行われています。札差が計り知れないほどの収益を上げることができた背景には、このように、武士の側にも経済に疎い面があったためと考えることができようです。