4. 丹羽桃丸の足跡を追って(B. 記録映画の舞台裏)

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4. 丹羽桃丸の足跡を追って(B. 記録映画の舞台裏)

地安寺に丹羽桃丸の墓
翌平成8年1月10日、一人先行して土山町へと向かいました。しかし考えてみると、丹羽桃丸の故郷が土山町松尾であることがほぼ判明したとはいえ、当地において丹羽家そして桃丸に関わる事象に出会える保証は何もありません。いいえ、『蜻蛉の道艸』に挿入された「松の尾川」の絵が頼りと言えば頼りなのですが。そうした不安な気持ちをかき立てるように、出発の当日はあいにく降雪のため岡崎のインターで降ろされ、四日市東から名阪で亀山へ、鈴鹿峠を越えて夕刻ようやく土山町立歴史民俗資料館へたどり着き、粂田美佐登氏の出迎えを受けました。そして翌日、粂田氏の案内で郷土史家の望月 保氏を訪れたのです。

 
望月氏は「土山の町並みを愛する会」にも所属され、すでに「垂水頓宮と伊勢斎王」「瀧樹神社とケンケト踊り」といった著書をなす土地の生き字引きと目される方です。丹羽家についてお話をうかがったところ、旧松野尾村に関する古文書に丹羽を苗字とする家を確認することはできない、ただこの村の寺は地安寺ばかりなのでとにかくそこを訪ねてみてはどうか、というお話でした。
黄檗宗総本山萬福寺執事を勤められている阿部梁解氏を住職とする、土山町前野の寺が地安寺です。その日(1月11日)早速、粂田氏の手配で訪問。住職によれば、丹羽家はすでに絶えていて墓も定かではない。ただ一つだけしっかり文字の刻まれた石があり、墓所の整理後も本堂の手前に置かれたままになってはいるが……、と日が暮れかけた窓の外を指し示すのです。確認の結果、丹羽桃丸その人の墓石に相違ありませんでした。こうして、住職には過去帳の一部閲覧の許可を得て、気持ちの高ぶりを押さえながらその夜は宿へ引き上げたのでした。

『蜻蛉の道艸』の挿し絵
翌日(1月12日)は、史料解読に駆けつけてくれることになっていた坪井利剛氏の到着までの時間に再度望月氏を訪ね、『蜻蛉の道艸』の挿し絵について検討願いました。その結果、天保14年(1843)の宿場絵図を示しながら、挿し絵に描かれた橋が、今の野洲川(外白川)にかかる国道1号線上の白川橋の北側にあった、旧東海道にかかる木橋(土橋)であることを知らされました。望月氏自身も、かつてその場所に架かる仮の板橋で川を渡ったことがあると言います。

 
望月氏から教えられた旧東海道探訪に出かけます。桃丸がその記憶の中に焼き付けた故郷の姿が、いささか流れの急な野洲川の前後に広がっていました。間違いありません、ここが丹羽桃丸の故郷です。描かれた絵の視点となった場所を探り、それから対岸へ渡って周囲を歩き廻りました。挿し絵の左手に描かれた、川の流れを大きく蛇行させる突き出た小山の崖を登り降りしながら川面を眺めていると、かつて盛んに人の行き来した情景が想像されてきました。その夜、坪井氏と合流し翌日からの調査計画を練って床につき、ようやく長い一日を終えることができました。